かつて大沼橋のふもとに「古根川豆腐店」はありました。
並んだ製材所を切り盛りしながら豆腐店を営んでいたのが
古根川やす子さんと夫の富蔵さんでした。
働き者のやす子さん
お母さんが弱かったもんで
私が草みしりしたり
あの時は水道水を川からくんでね、
運んで
食べ物をしたとこの残飯
昔はししなげって言ったんだけど
亀壺へ水を入れーの
ししなげを畑へ入れ―のしてました。
それをしてるのを
古根川のお義父さんが見てね、
ここのお義父さんは豆腐屋もし、
働き虫だった。
材木1日に2回も3回も運んだんですよ。
その当時
よく働く子おるよって
嫁にもろってこい!
っつーのはじまった。
それが直接ここのお父さん(旦那さん)はこないで
橋渡しが来たわけ。親戚の人が。嫁に来たってくれんやろかって。
当時の古根川家は
製材所と豆腐店を営んでいて
とても忙しかったため、
せっせと真面目に働くやす子さんを
ぜひお嫁にとのことで、19歳でやす子さんは古根川家へ嫁ぎました。
ところが、当時やす子さんは
役場で働き始めたばかり。
正直言うと辞めたくなかった。
しかし、多忙な古根川家の嫁入りの条件は
家業を全うすることでした。
1日フル回転で働き倒しの日々
やす子さんの1日のスケジュールは、
聞いてても卒倒するほど。
製材所の作業もありながら、
さらに生計を助けるために
方々へアルバイトへ
出かけることもありました。
豆腐だけでは食べていけなんだから、
あそこの製材も引いてくれいわれるし、
相須にもってく製材もしーの、
豆腐もしーの
生計がえらくなってきたもんで、
アルバイトに役場に入ってみたり、
観光課にもいかせてもらってたんです。
筏下りとかね。
結構何年もさせてもらって。
もうあっちこっち。相当ね
仕事させてもらってるんです。
そうして生活費を助けたわけ。
朝は(アルバイト)行くまで
仕事してくんやで、朝はよ起きて。
私がしておいて。
深夜2時3時に起きて、豆腐作りを手伝い、
パックしたものを旦那さんが村の各商店
三重県の小森・花知・西山の商店や
JAへ卸していました。
働きづめの中でも、
子育て・両親の世話等を
引き受けながら家業をサポートする、
激務の日々を送っていました。
村の人から大人気の手作り豆腐
古根川豆腐店の豆腐は
手作りで村民はもちろん、
お正月に大阪から帰省する方がまとめて
買っていくほどでした。
お正月には
必ず80丁くらい買ってくれて、
それを妊婦さんや近所の人らに
美味しいからって手作りやから。
その美味しさの秘密は4つある。
薪で炊くんと、
水がよかったんと、手作り。
そして防腐剤を1滴も使っていないこと
豆腐は豆が腐るって書くやろ。
その通り字のごとく。
それは今腐らんように、
1週間おいてもどうもないで。
今の豆腐は。
でも、防腐剤完璧に入ってるんやで。
(豆腐は普通)持つはずがないの。
作ったお豆腐はもっても次の日まで。
お酒が好きな村の人は
安く上がる豆腐を商店で買って、
豆腐をあてに晩酌をしたそう。
しかし、
薪で焚くまでも大変な作業でした。
それまでには
薪やから山へ木をこりにいって、
もってきてのこぎりで引いて、あの当時はチェーンソーもなかった。
そんでほんとに偉かったわ。
こんな小話も教えてくれました。
(豆腐を食べた村の人が)
「おーい、やすこ、お前ら昨日けんかしたんか?」っていうんやで。
「え?なにがあったん?」
「ゆうべの豆腐はよぉ、味がちょっと落ちとよ。」
ってこんなんやだ。
違いますよって。
私ら家族でも食べてみて、
今日のはちょっとまずかったねぇ、
今日のとっても美味しいね!って食べっていうんやわ。
だから、いわれるのも無理はない。
豆腐の塊によって、
柔らかいのとざくっとするのとあったんですよ。
そやからやっぱし365日うまくいかない日もありました。
それでも買ってくれて、
今みたいに売り手もけえへんし
熊野に買い物にもいかへんし
買ってもらって生計たてたんやわ。
一部を。だからえらかった。
当時は。
村の人の食卓に、
そして古根川家の食卓には
いつも古根川家のお豆腐がありました。
生計は大変だったけど、
食べてくれる人がいる。
喜んでくれる人がいるから。
と、やす子さんと旦那さんは
せっせとお豆腐を作り続けました。
作業の様子の写真は一切ありませんが、
当時の様子を村の小学生が版画にしてくれて今も大切に飾られています。
突然の別れ
二人三脚で歩んだお豆腐作りに、急な別れが訪れます、旦那さんが不慮の事故で、突然この世を去ってしまったのです。
あの時はショック。昼ここで炊事場でご飯食べて、夜にはおらん人になってったんやからね。人間死ぬときはわからん。
(豆腐が)美味しかったからもったいないと、「やす子、せーよせーよ。てつどうたる」と声をかけてくれましたが、
私も自信ないし、
さりとて息子も呼べんし、
誰も呼べんし、
ひとりでする勇気はないし、
ほとんど8割お父さんが釜で炊いて、
ボイラーじゃなかったから...
村の人から続けてほしいという
声がたくさん聞かれましたが、
女手1つで豆腐を作ることは難しく、
古根川豆腐店を手放すことになりました。
平成8年のことでした。
以来自分の食べる分は自分で稼ぐと、
やす子さんは以来役場の用務員や建設会社、
バンガローの管理人の仕事を続けました。
それでも村で生きる
やす子さんはその後も商工会婦人部の役も引き受けるなど
北山村で重要な役割を担っていきます。
商工会の役も立ち上げて8年もたしてもらった。
商工会婦人部長。食推(北山村食生活改善推進協議会)も
あれも8年。
全部書類置いてあるけど
自分の目の黒いうちは
みんなのおかげで団体はなりたったもんやけど
書類はよう焼かん(焼けない)
最後に「店の活性化こそが、村の活性化に直結する」と
長年村で商売をしてきたからこそ
核心をもって伝えてくれました。
「最期の時までここで精一杯過ごすこと」
働き者のやす子さんのきっちりした性格、てきぱきさに圧倒される中でも、やす子さんの言葉の節々に力を感じました。
今も北山村の若者の背中を押し、相談に乗り、笑い、生きるやす子さんの目に、これからの北山村は見えているのでしょうか?
(聞き手:香月翔斗・里中恵理)